vol.008「昔話」

大学院に在籍していた僕は、イタリアに留学しようか就職しようかと漫然と卒業後の自分を考えていた。カルロスカルパの濃厚な建築に傾倒しながらも脈絡無くアトリエ5の知的なチームワークにあこがれている、いわば軽い建築学生だったのかもしれない。第一工房の大阪芸大アートホールが発表されたのはまさしくその頃だった。

新建築に掲載されたその写真は衝撃的だった。記事の最初の写真を見た時に自分のイメージを越えたコンクリートの力強さに眼を奪われたのを覚えている。早速第一工房を調べると、なんと高橋靗一さんを中心とするパートナーシップの事務所だという。第一工房はまさに僕の脈絡の無い二つの建築観を合わせ持つ設計事務所だったのだ。

初夏の週末を利用して見に行くことにした。京都で岩本禄の電話局を見てから大阪に向かった。坂道を上り、アートホールが視界に入った時の感激は忘れられない。マルセイユでコルビジェのユニテを見た時の感動に近かったというと言い過ぎだろうか。コンクリートの圧倒的なボリュームが長谷川堯さんの言葉通りに眼の前に現れた。

おそらくぼぉーっとしていたのだろう。不意に声をかけられた。

「君、何をしているの」

小柄な方だった。

「建築の学生です。第一工房に就職したいと思って東京から来ました。」

「あぁそうなの、僕が高橋です」

とんとん拍子に話が進み、夏に面接を受けてしばらくすると採用の連絡をいただいた。4月になったら来てください。同級生の間では第一工房は大変だぞと言われていたが、あっけないくらいスムーズだった。

初日に一張羅のスーツを着てでかけ、なにもわからないまま一日が過ぎてそのまま飲みにつれて行かれた。先輩達からさんざんおどかされおだてられて、大分飲んで気がついたらスーツのままチーフの家のソファで朝を迎えていた。

そんなスタートを切った5年間の主な担当は、東電渋谷電力館、九段高校尽性園、科学博迎賓館、東電伊東和楽荘、麹町日月館、都立大学南大沢キャンパスである。どれも思い出深い仕事であるが、チーフと私の2人の小さなチームで担当した科学博迎賓館と麹町日月館が特に印象深い。

迎賓館はハードとしても空間としてもちゃちな仮設建築が林立する博覧会場にあって、仮設でいかにリアリティーのある空気をつくるかがテーマであったと思う。図面でのエスキースに飽き足らなくなった高橋さんから1/50の模型を作るように言われて、打合せテーブルからはみ出る模型をつくった。高橋さんも一緒になって夜中まで作ってはこわしまた作り、それでデザインが決まっていくプロセスはとてもエキサイティングだった。

麹町日月館は小さな建築だが、唯一基本設計から現場監理まで通して担当したので一番印象深い。京都の数寄人であるクライアントが担当者の私をいろいろなところに連れていってくれ、そのおつきあいで学べたこと、小規模の工事を常駐監理でつぶさに見て学べたことは幸運であった。

エントランスホールの床のデザインをめぐってクライアントとずいぶんと議論したことが忘れられない。今にしてみれば小賢しい図面をみせるともっと簡単にしてよと言われ、もまれてたどり着いた中途半端な最終案で現場に入ったが、どうにも納得がいかない。思い切ってスカルパをまねて大理石を並べた人研ぎを提案したら、半信半疑のお顔で了解してくれた。自分で石を並べ一生懸命造った床を、クライアントは竣工の直前に病気を押して見に来てくれた。養生を少しめくってご覧になって一言、まあええなあといってくださったが、その数週間後に亡くなられてぴかぴかにみがいた床を歩いていただくことはかなわなかった。

在職5年は短かすぎて、第一工房のエッセンスすら学び得たかどうかも覚束ない。昨年、大阪芸大アートホールを見に行った。設計者としてのスタートを決めた建築の四半世紀を経た姿を見たかったのだ。28年前と同じように坂を登ると思っていたより風化した姿で現れた。表面が多少荒れたコンクリートは厚化粧とは無縁の経年変化であり、良い年の取り方をしたと思った。コンクリート打ち放しに対する設計者の思い入れや価値観の変化を素直に物語っているようにも思えた。

四半世紀の時間は建築の価値観をも変えてしまったが、僕の建築観は当時とさほど変わっていないと思う。僕の事務所では保存改修、保育園の仕事が多い。いずれも過去を見据え未来を思い設計をしなければならない仕事だ。そこで求められるロングスパンの思考は、第一工房で間近に見て経験した濃厚な仕事のイメージがあって身につけることが出来たものと思っている。第一工房で受け継いできた建築に対する思いをつなげ、アートホールを初めてみたときのあの衝撃を忘れずに、これからも淡々とつくり続けていきたい。

(20011年10月)