vol.001「生活の力」

休日の朝早くそっと玄関を出る。街はいつもならすっかり起きている頃だが、たまに犬を散歩させている人に会うくらいでまだひっそりとしている。公園をぬけて、よその家の庭先の花を楽しみながらゆっくり歩いて、開店前の床屋に着く。床屋のご主人もまだ起ききらないようで、奥でコーヒーをすすっている。そこはご主人と奥さんの二人で切り盛りする小さな床屋で、私の髪を切ってくれるのは奥さんである。いつも通りのたわいのない雑談、家族のこと、不況のこと、近所にできるマンションのこと。私が設計者であることをいつの間にか知っていて、どうしても話題は家のことになる。話さなくともうんうんと言っていれば勝手に話は進んでいくが、たいていは乗せられて普段以上に饒舌になってしまう。気持ちの良い休日が始まる。

床屋は住宅街のはずれの貸家にあり、1階が店でその奥と2階が住まいである。改装をできるかと相談されて一度おじゃましたことがある。古い貸家で、それ相応に傷んでいて、置いてある家具に高級な物があるわけではない。ここで3人の子供を育て上げたのかと思うほど狭く、特にきちんと片づいてもいるわけでもないが、それなりに物は納まっている。夫婦で仕事をしながら子供を育ててきた強さと合理性のようなものだろうか、私はその家に妙に納得してしまった。それは何か特別の住文化や智恵ではなく、生活の力のようなものが見えたからかもしれない。

イギリスから来た友人に、日本の家はほこりっぽいと言われたことがある。そんなことはないだろう、彼の国がこちらにくらべてほこりっぽくない理由がみつからないと言うと、イギリスにはラグを敷いてほこりを吸わせて、毎日外でたたく習慣があるからだと言う。こちらの場合は毎朝縁側を開けて、ほこりを掃き出すことがそれに相当するのだろうか。たしかに生活の変化で、そのような習慣は無くなってしまったかもしれない。このような些細なことの積み重ねを住文化と言う向きもあるが、文化と言う程のことでもない。住まうことに必要な仕事を効率よく気持ちよくこなす手順は、親が子供に、姑が嫁に教えてきた。これは、ことさら雑誌等で取り上げるようなことではなく、時間や経済の効率を考えることで洗練されてきたものだったが、いつの間にかの本末転倒で文化の仲間入りを果 たし、本来の洗練を失ってしまっている。生活が、自身の基礎体力とも言うべきものを無くして踏ん張ることのできない状態では、住文化は支えられないだろう。

住宅の設計を頼まれてクライアントの家を訪ねる機会が多いが、そこに新しい家に持っていきたい生活が見えて納得することは少ない。狭い、時間がない、建て替えるから等の理由であふれている品々に、力のない、いわば肥満したような生活が重なって見える。なにも一昔前の生活に戻ろう何てことを考えているわけではない。大きくて融通 無碍な家が、生活の変化を許容してくれていた時代とは違う。むしろ、家族も小さくなって、家も小さいのなら、それに合わせた効率の良いコンパクトで切れの良い生活がある様な気がする。 以前にとても小さな家を設計した。18坪の土地に4人家族が住まう延べ面積25坪の木造住宅である。小さな土地に詰め込めないほどの夢があって、まるでパズルのような設計であったが、引っ越しの後に伺うとものの見事に納まっている。聞けば基本設計の段階から、小さな家に合う小さな生活を皆で話し合っていたという。とても気持ちの良い家になった。

住宅を設計するときには、いつも背伸びをしない心地よさを考えている。住む人の生活に合った引き締まった器を思い描いて、それが街になじみ、いつかその街の文化のようなものにつながればすばらしい。私の夢は地面 のしがらみを離れて小さなクルーザーに住まうこと。そんな夢を話しながら、なじみの床屋でひげをあたってもらうのは気持ちが良い。