小住宅のリアリティー 住まい手とつくり手

構法のリアリティー

小住宅の設計を依頼されるときは「予算的に厳しいから建売住宅をさがしていたが、どうしても納得がいかないから設計してほしい」と言われることが多い。これは我々にとってはなかなか厳しい言葉で、市井にあるさまざまな困難な状況の中で、あなたは設計者として何ができるのかという問い掛けと同義である。それに対して言葉の修辞や、臆面 も無い安普請の押し付けは意味を持たない。

今、木造住宅の見直しの議論は、プラットフォーム構法による合理化をはかり軽くなる方向と、伝統的技術によりどころを求め重くなる方向に二分されていると思う。しかし、私の考える現代の我々の生活は、そのどちらともしっくり合わない。あいまいな言い方が許されるならば、その中間に解があるような気がする。

3軒の住宅(YKH1992、SSH1994、SKH1995)はいずれも90平米以下で、明らかに小住宅という部類に入る。しかし都市圏で生活をする私たちにとっては、決して摩訶不思議な大きさではなく、よくあり見慣れている大きさである。社会問題を議論し、土地が小さい等と言うつもりはない。逆に数人の人間が、一つの家族が生活していくために必要な空間を確保しようとして住宅を設計すると、それほど大きくならないだろうと思っている。現代の生活の大きさに程よく合って、その生活に変化があれば対応できる住宅。そのような住宅を手ごろなコストで、気持ちのいい肌触りと優れた基本性能を持った構法で実現したい。そのためには、建築家の恣意的な操作に負けない存在感があり、時にはその思いに敏感に答えてくれるような住宅生産のシステムが必要である。

都市圏以外の地域には、それぞれの地域で根付いた住宅構法とそれを支える職人、また彼らを支えるコミュニティーが残っている。かつては都市にもそのような地域性があったのだろうが今はない。産直住宅などの運動は、住むことについて共通 の認識を持つ人々の集まりという点で、まさしく地域に取って代わるコミュニティーと言えるかもしれない。その中での構法の確立と洗練も可能かもしれない。

黒川哲郎さんは、手掛けられている通直大断面集成材を使う構法について、都市の鉄骨ALC造に代わる構法として考えているとおっしゃっていた。今、私たち設計者が都市の小住宅に何か貢献できることがあるとすると、このような考え方に基づく構法とそれを支える生産システムを考えることだと思う。逆説的な言い方だが、設計者が関与しなくてもよくなったときに初めて生活の実感とうまく合う、住まい手にとっても作り手にとってもリアリティーのある小住宅ができるようになるのかもしれない。

空間のリアリティー

設計事務所に勤務していた頃には、木造の設計に携わる機会がなかった。そこでは木造の住宅もたまに手掛けてはいたが、大部分は鉄筋コンクリート造、鉄骨造であり、比較的大きな規模の建築を丁寧に作る事務所だった。独立後に戻った大学の研究室では大断面 集成材の木造住宅の設計に参加した。このようなスタートのせいか、その後の住宅の製材の柱も、ラーメン構造の感覚で大きめのグリッドにのせて均等に入らないと気が済まない。3軒の住宅も3600、2700、のグリッドに120角の柱の軸組がのり、登り梁か垂木による架構が架かり、小屋裏の部分まで室内空間として利用している。つまり、いわゆる和小屋在来構法ではない。和小屋在来構法と言う洗練されたシステムは「おぼしめすままの御普請」と言われるように、わが国の住宅に融通無碍な間取りの可能性と増改築の可能性をつくりだしている。にもかかわらずこの3軒の住宅がいずれもこのような構法になっているのは、第一には限られた建坪の中で可能なかぎり多くの床を確保したいためであり、またその最大限に獲得した空間を町並みの中で突出した大きさにしたくないがためでもある。しかし自分の気持ちにもっと素直な言い方をするならば、限られた体積の小住宅の中に住空間を展開するときに、整理され現わされた軸組架構が心地よいリアリティーを感じさせてくれるからと言うほうが近い。住む人にとっても、それは建築の存在と成り立ちを感じる手掛かりになる。近年の大壁の在来構法は、その可能性を乱用し異常な進化をしてしまったように思える。継ぎ足しでいかようにでも作ることのできる軸組を、ボードで蔽い壁を作り屋根を載せどんな空間でも出来上がる。そこには軸組構法の持つ空間性も無ければ整合美も無い。最近の建売住宅の平面 図を見ると、上下階のどこでつながっているのかよく読めないことがあるが、それはこのことの顕著な現れであろう。 私と同じような考え方の住宅は現在たくさん建てられているし、先輩達の作品の中にも多い。特に目新しいものだとは思っていない。しかし、住宅の工法が見直され価値観が修正される中、工法としても意匠としても試みるべきことはまだまだあると思う。私は小住宅の設計のプロセスにおいてその総合性能を組み立てるとき、いつも前回の見落としに気づき慌てている。

現場のリアリティー

大壁の住宅を一度も設計監理したことが無いのでよくわからないが、自分が刻んで建てた柱をボードで蔽うとき、大工はどんな気持ちがするのだろう。やりきれない思いを想像するに難くない。木造建築の抱える問題に大工の減少があるという。現場では設計者ばかりが鼻高々で、大工はそれを横目で見ながらボードを張っている。大工にとっては作ったものが見えて初めて責任とプライドが持て、楽しむこともできる。やりがいのない仕事に次世代の人が付かないのは当たり前のことで、これは賃金等待遇以前の問題だろう。住む人もその中に何があるかもわからないから、メンテナンスという概念も生まれない悪循環。これらの住宅の現場では、「当たり前のやり方なんだがいつもより手間がかかっちゃったよ」という大工の愚痴を聞かされた。思っていた以上に費用がかかったんですよという監督の愚痴も聞いた。しかし、その手間が、建て主の満足度と性能を確実に保証するために必要なコストだと思えば決して高くない。 北米にティンバーフレーマーズギルドという大工工務店の団体がある。私は数人の友人と共に、彼らを招待し話を聞くシンポジウムを木造建築研究フォラムで企画し、1997年の5月に東京で開催された。彼らは北米で一度途絶えた軸組構法・ティンバーフレームを再興し、それを伝え、広め、ビジネスにもしている。見せてもらう写 真はどれも楽しげで底抜けに明るい。作り手の仕事を大切にする気持ちと楽しみとが、住み手の生活の実感とうまく一致しているのだろう。彼らのプレゼンテーションには、生活に対する思い、構法、工法に対する考察、環境に対する配慮が盛り込まれ、住み手の生活と作り手の思惑がかみ合わないもどかしさを吹き飛ばしてくれるような説得力と楽しさがあった。これは、わが国の木造住宅再考のヒントとなるにちがいない。

住宅建築 1997年10月号