図面に表れない建築
旧細川侯爵邸の調査を通じて

普請という言葉がある。普請をする、家を建てるということは、それにかかる金額の大きさやその後使う年月のことを考えれば、大概の施主にとって一大事であり、良くも悪しくもその人となりを表すものとして理解されてきた。今ではあまり言われなくなったが、しばらく前なら普請道楽の旦那が親戚 縁者の内に一人ぐらいはいて、座敷や軒桁の自慢をしたものである。

現代の家づくりではどうであろうか。家づくりはカタログ等の選択肢をたどることでほとんどが終わり、残る生活の部分についても設計者、棟梁などの専門家を説得できる施主はまれである。家をつくるという本来極めて私的な作業のための一番大切な知恵を、現代の施主はどこかに置き忘れてきていないだろうか。

私が初めて目白の旧細川侯爵邸を訪れたのは1993年の秋だった。その屋敷はほんのわずかしか目白通りに面していないため、石の門柱は気づかずに通りすぎてしまうぐらい控えめで、その奥に緑豊かな大きな敷地があると気づく人は少ないだろう。門を通り抜けて木立の中を進むと、正面に侯爵邸があった。きれいな秋晴れの青空と周囲の豊かな緑のなかで、大戦をはさんだ厳しい歴史を感じさせるような黒っぽい斑の外壁と痛んだ屋根が印象的だった。足を踏み入れてみて、使われていない建物特有のかび臭さが鼻をつき、妙にまとまりのないちぐはぐな意匠に少しがっかりしたことを覚えている。その後、翌年までかけて行われた屋根外壁の修理に設計者として関わったが、足しげく通う間に死んだようだった建物があたかも病気が治るかのように徐々に息を吹き返していくさまを目の当たりにして、私はこの建物が持つ不思議な生命力のようなものを感じていた。

一昨年度に、この建物は東京都の有形文化財に指定され、今年度から2003年までの予定で、内装と設備の修理を行うことになった。昨年度はそのための調査を私の事務所で行なったが、保存されている設計図、仕様書と現在の建物の姿とが大きく違う部分が多いことがわかった。そして、その設計図に表現されていない部分にこの建物の魅力、生命力の源があるように思えて頭を悩ませていた。これは、建築に関わる様々な与条件を整理統合して、設計図をまとめ建築を造ることを仕事とする設計者の立場から見れば困ったことである。しかし、細川家は当時の貴族、いわば殿様の発注による普請であり、設計図などなんのその設計変更は容易に想像できる。その上、ブラックボックスのような進駐軍の接収期間がますます事態をむずかしくしている。文化財として、そして建築として大切なのは、まさにその生命力の部分であろう。修理が終わって力を失ってしまったなんて事にでもなれば大変である。いかに、60数年を駆け戻るか、古文書をひもとくような思いであった。

まず、建築とその歴史を概観してみたい。目白台の丘陵地の一角をなす約21,000平米の敷地は江戸時代の肥後熊本藩・細川家の下屋敷の一部である。明治になって細川家はこの地に和館・洋館併立の邸宅を構えて本宅としたが、大正12年(1923)の関東大震災によって被害に遭い取り壊されてしまう。現存する建物は昭和11年に再建されたもので、現在はこの建物を含む敷地全体を、財団法人和敬塾が所有している。建築計画は、昭和7年(1932)に細川護立侯爵が設計を大森茂建築事務所に、施工を株式会社大林組に依頼して始まった。昭和9年5月に地鎮祭、同11年12月6日に落成式が行われている。以後、細川家の家族は終戦までの9年間をここで生活したが、終戦後は進駐軍に接収されオランダ軍が使用した。以降接収解除後も細川家が本邸を使用することはなかった。

躯体は当時新技術であった鉄筋コンクリート造で、小屋組は木造である。設計図は昭和7年と9年の2案が現存していて、一度設計が終わった後に再度設計をしていることがわかっている。2案とも外観にチュダーゴシック様式を基調とする本格的な洋風意匠が施されているが、契約後に設計変更がなされハーフティンバーやスクラッチタイルが中止されてモルタルリシン吹きつけの比較的シンプルな外観で竣工している。

内部では客間の漆塗りの腰、竹の高度な細工でまとめた寝室、中国風の居間等が大きな特徴となっているが、これらはいずれも設計図には表現されていない意匠である。空間構成は洋風の平面 計画を基本とするが、2階は私的な部分と公的な部分の双方に和室を取り入れている。家人のための部屋はそれぞれ決して大きくなく、用途を考えると首を傾げてしまうような部屋が多い。枠廻りなどの全般 的な意匠は、設計図に表現されている装飾的な雰囲気ではなく、すっきりとした意匠で竣工している。その後大きな改造がなく、ほぼ当初の状態を保っているが、一部の内装仕上げ材は接収期間中に取り換えられている。暖房設備は石炭炊きボイラーを熱源とするスチーム暖房設備とともに、ダクトによって各室に新鮮空気を供給する近代的なシステムが設けられていた。

前述のように、設計図と仕様書は昭和7年と設計変更後の昭和9年のものが残っているが、いずれも竣工した建築を表していない。外観では、細部の違いはあるが二案とも全体を基部、中間部と上部の三層に分けた意匠が特徴である。平面 では二案とも現況と比較して地階の面積が小さい等の差はあるが、大きな構成はほぼ現況に近い。二つの案の違いの一つは、寝室や応接室、座敷等の主な部屋が7年案では少し入り組んで一つ一つの部屋が小さく感じられるが、9年案で大きくのびのびとなり、すっきりとしたプランニングになっている点といえる。次に、全体的に開口部が少なくなっている点があげられる。7年案は2階部分に大きな窓がたくさん設けられ、南側はほとんど開口部といってもいいほどである。特に夫婦の寝室には二面 ガラス連窓の出窓が設けられ庭に向かって大きく開放している。9年案では一転してクラッシックな単窓が主体になり、各部屋のコーナーは壁になっている。内装の意匠については二案の間に大きな違いは無いといえる。

昭和7年と9年の設計図は、護立候の注文を入れながらも建築家大森茂の好みでまとめられたのだろう。竣工した建物と設計図の本質的な違いは、工事期間中の設計図のない設計変更で決められている。このことは、今回新たに契約後の変更請書が請負の大林組の資料の中から発見されたことで裏付けられた。新築工事之内仕上工事請書として躯体工事中の昭和9年12月26日付で請負金額:17万9千8百44円51銭の契約がされている。これに添付された内訳書は昭和9年6月の仕様書に添付されているものではなく、新たに作成されたものである。内容は基礎、躯体工事を除く部分で、朱の訂正が入っていて、修正後の請負金額が上記の通 りである。昭和7年12月の内訳書の仮設工事、基礎工事、躯体工事を除く部分の総金額は14万6百30円75銭である。この金額と上記金額を比較すると4万円近い増額であることがわかる。

この資料が発見されるまでは、設計案から最終実施案までの変更は経済的な理由による減額が目的だったと考えていたが、全くの考え違いだったわけである。この内訳書の内容と竣工した建物との間にはまだ相違があり、前述の漆塗り腰壁等のほんとうにおいしい部分は全くでてきていない。その時、護立候は何を考えていたのだろうか。

ここで細川護立侯爵の人となりを紹介しなければならない。護立候(明治16年10月21日~昭和45年11月18日)は肥後旧藩主細川家15代細川護久の四男、女子を入れると、十一番目の末っ子として生まれた。母宏子は幕末史に名を残す鍋島閑叟(直正)の四女である。細川家16代として貴族院議員を務めたが、むしろ唐三彩 などの中国陶磁器、刀剣等の工芸品、フランスの印象派や近代の日本画などのコレクションと、画家や工芸家たち、志賀直哉や武者小路実篤ら白樺派を庇護(ひご)したパトロンとして名高い。戦後は国の文化財保護委員会委員として、文化財の保存活用に貢献している。

調査中に、当時の生活の様子について護立候の三女で当時候と一緒にこの屋敷にお住まいになった寺島雅子様のお話を伺うことが出来た。

「父はそこら中に書斎を造っていましたからね」

「壁には、そこら中に絵がいっぱい掛かっていてね」

「父は、初めから侯爵家を継ぐ人じゃなかったんですよ。沢山兄弟が居て。この前のおうちも大きな洋館があったんですが、それも先代が建てたもので。これは自分が建てたから、自分の部屋をいっぱい作ったんじゃないですか。」

このお話を聞いて、もやもやとしていた頭の中にさっと日が差すような思いがした。いくつもある用途のわからない部屋はすべて護立候の書斎だったのだ。ちなみに地下と1階に一カ所ずつ、2階に2カ所、屋根裏に1カ所で全部で5部屋にもなる。せっかくのきれいな庭園を眺めることの出来る大きな窓を無くしたのは、絵を掛けるためだった。この建物は護立候の趣味の家だったのだ。ほぼ同じ時期(昭和4年)に前田侯爵邸(現東京都近代文学館)が建てられている。施主の前田利為侯爵は生粋の陸軍軍人で、設計者の高橋貞太郎は東京大学を卒業後、宮内省内匠寮の技師を勤めたエリートである。前田侯爵邸が正統派の施主、設計者の組み合わせが造った迎賓館的な洋館だったのに対して、細川侯爵邸は護立候の広範な芸術への関心を具現した極めて私的な家なのである。比べてみると、建築設計のセオリーからはずれた、いささかわかりにくい建物だが、護立候の美意識が造り上げた、いわば想いのこもった切ったら血の出てくるような建物に思える。定かではないが、設計者の大森茂はこの工事の直前に大森茂建築事務所の実務から離れて、その後を臼井弥枝(ひろし)がまとめている。このこともきっかけの一つになったのかもしれないが、工事は護立候が現場を楽しみながら直接細かい指図をして行われたのだろう。

今回の調査では、護立候が大切に考えたと思われる事がいくつか新たに明らかになった。その詳細についてはいまだ不明の点が多いが、それらがこの建物に血を通 わせていた力の源の一つであろう事は疑いがない。

玄関の間の石門

現在は玄関からホールに素直には入れるようになっている。これがごく当たり前で、ここが当初は違う形になっていたなどと考える人はあまりいない。しかし、竣工時は正面 に禅寺風の石門が設置されていて、家人も客人も直角に右に折れて内に上がっていた。今回見つかった竣工写 真で確認できたものだが、平成9年の図面平面図、ホールの詳細図には表現されていない。また、平成9年12月26日付けの仕上工事内訳書には石工事としても雑工事としても触れられていないので、いつ石を玄関に置くことが決定したのか、よくわからないままであるが、写 真でもわかるように極めて大きな存在感のあるものである。細川家の美術品を所有する永青文庫が保存する「御新築日誌」には、昭和10年8月22日付「熊本北岡ヨリ御新築用トシテ石門一式取寄セ左ノ通 リ本日到達ス 荷造個数 貳拾貳個 品数参拾壱個」という記載があった。北岡は細川家の菩提寺臨済宗妙解寺(明治4年廃寺)のあった場所である。

魚の間(1階喫煙室)

寺島雅子様のインタビューのなかでこんなお話がでた。
「魚の部屋、ちょっと出っ張った部屋に近しいお客様をお通ししていたんです。壁にずっと網が張ってあって、絨毯に魚の模様がついていて、魚の部屋と呼んでいてね、親類とかはそこにお通ししていました。」

この部屋は前回の修理の際に壁紙を張り替えている。当時はひどくいたんだ壁紙になっていて、それをはがし何層か下に張られていた木版刷りの紙を当初のものと考え、刷り直して張り替えた経緯がある。調査結果 がはずれるというのはこういうことだろう。少々焦って修理工事を担当してくれた真木建設の渡辺氏に電話をしたところ、しばしの沈黙の後に「そんな網があったかもしれない」とのこと。何日か後に送られてきたのはまさしく漁網とその下の水玉 模様のある和紙の断片である。

事の顛末を推察するとこうなる。修理の際に窓上には少し粗末なカーテンボックスがあった。進駐軍の取り付けたものであろうと撤去したが、その際にボックスの下にその断片があった。ボックスを取り付けた職人は網が張られた上から取り付けてその後に周囲を切り取ってちぎってしまったのだろう。 壁は漁網が張られ、その下地は水玉模様の和紙。天井の廻り縁は漁網の浮き。床には大きな双魚。そこにいるとあたかも捕えられた魚のような気分になる部屋。なんとも、シュールな体験ではないだろうか。昭和8年竣工の朝香の宮邸(現東京都庭園美術館)にも魚のモチーフが多く使われている。全体の意匠の傾向は違うが、当時護立候も訪ねられご覧になったかもしれない。 この修理工事はやっと緒についたばかりといえる。一部にまとまりのなさや部分的な不釣り合いを感じさせる不思議な建物だが、調査の過程で接収されていた期間の改修部分がほぼ解明され、その後ろに隠されていた護立候の強い意志、美意識、整合性が見えてきた。これからの作業で薄皮を剥ぐようにそれらを発掘していくことになる。護立候が直に建物に刻んだ想いと、それを実現した工事関係者の知識をそのままに次世代につなぐ修理工事になればと願っている。

この修理工事はやっと緒についたばかりといえる。一部にまとまりのなさや部分的な不釣り合いを感じさせる不思議な建物だが、調査の過程で接収されていた期間の改修部分がほぼ解明され、その後ろに隠されていた護立候の強い意志、美意識、整合性が見えてきた。これからの作業で薄皮を剥ぐようにそれらを発掘していくことになる。護立候が直に建物に刻んだ想いと、それを実現した工事関係者の知識をそのままに次世代につなぐ修理工事になればと願っている。

すまいろん 2001年冬号