歴史の流れにのせる修理工事

昨年(2003年)の3月で、10年間にわたり関わってきた旧細川侯爵邸の修理工事が一段落した。

旧細川侯爵邸は1998(平成10)年3月13日に東京都の有形文化財に指定され、2000年度から2003年度に、内外装と設備の調査と保存修理を行うことになった。そもそもは木造建築研究フォラムがこの建物の調査を依頼されたことから侯爵邸とのおつきあいが始まったが、1993~94年の漏水の緊急修理後は私の事務所で維持のお手伝いをしている。

この建物は、1955(昭和30)年から財団法人和敬塾の所有になり、以来、塾生の日常的利用や財団の接遇施設として利用されてきた。これは今後も変わることなく、この度の文化財指定でも、まさに活用する文化財を行政と和敬塾ともにイメージしている。いわゆる博物館的に建物を展示する意図はそこには無い。昭和以降の文化財が増えていくなかで、このような利活用を前提とした保存の考え方は求められていくだろう。私の事務所では文化財建造物についてこれ以前の経験は無く、私はいわばこの分野の門外漢である。調査修理にあたって、そのイメージづくりが最初の作業だった。

旧細川侯爵邸は細川護立侯爵の発注により、1936(昭和11)年に竣工した。明治以降の華族邸宅は洋館和館の二棟を並べてその生活様式に合わせてきたが、この頃から一つの洋館の中に和室を設け和洋折衷の空間を作る例が多くなってきた。いわば日本の折衷住宅のはしりであり、旧細川侯爵邸もその好例と言われている。また、ここでは洋間の部分にも護立候の好みで和風の意匠が多く取り入れられるなど、近代日本の住宅史における和洋過渡期の貴重な遺構として文化財に指定された。竣工後70年弱の、国際的に見ればごく新しい建物であるが、その間には大きな戦争と大きな社会変化を経験し、接収と売却という建物としては波乱の歴史をたどっている。また、現存する当時の仕様書に記載された用語の一部は私にはなじみの無い言葉であり、このうちのいくつかはその分野の職人、研究者に聞いてもわからなかった。それほどに、この数十年の変化は大きいと言うことだろう。今回の修理工事では、接収中とその後の改造工事のかなりの部分が明らかになったが、竣工から接収までの期間に護立候本人によって微妙に改修されたと思われるところもあり、すべての詳細な判断は不可能であろう。それらはすべて歴史のなかにある。

私は、その歴史の匂いを残して、本来の魅力を持ち続けこれからも使える建物を目指して修理をしたいと思った。歴史を消し去ってしまう「竣工時の再現」は行わない、いわば「竣工から継続して良質なメンテナンスがなされた建物」が保存修理設計にあたって私がイメージした大きなテーマである。

施工にあたった元請けの郷建設と各分野の職人は一年以上の期間にわたって地道な努力をしてくれた。最終的仕上の程度について方針が決まると、その後はほとんどが延々と続く単調な作業である。膨大な量の木部塗装は、手が変わらないようにと一人の職人が黙々と作業をしてくれた。照明器具修理の打ち合わせでは、きれいにできましたと職人が出してきてくれたピカピカの修理完成部品に戸惑った私の気持ちを郷建設豊中社長が察してくれて、もう一度調子を落とそうと言ってくれた。彼ら平成の職人たちの作業もまた、この建物の歴史になっていくのだろう。

今後の利活用のために、保存修理工事にあわせて当初の裏方の部分を中心に思い切った用途変更と改修を行った。また、邸に隣接して避難と最上階への導線として階段塔を建築した。文化財建造物修理工事では、改修部分が後年に明確に当初仕様との判別ができるように、その部分はあえてコストを抑えその時代風にまとめることが多いように思う。しかし、そのために連続した雰囲気を損ない、全体として建物の質を下げていると感じられることもあった。私は改修工事も歴史の連続のなかで考えたいと思い、もし護立侯か当時の設計者が私の立場だったらどうだろうと思いをめぐらせた。このような考え方には当初懐疑的なご意見もいただいたが、東京都と修理委員会の前向きなご指導により、私の設計者としての思いもすこし加えることができた。

今回工事で修理工事は一段落したが、まだ漆塗りの造作等大切な部分がいくつか残っており、これからも修理を続けていくことになる。修理の作業を時間をかけて続けていけることは幸運なことだと思う。建物のこれからの歴史も考えると私の関わるのはわずかな時間であるが、そのなかでも思いや考えが時間の流れにこすられて滑らかになっていくのを感じる。そうして、一連の修理工事がいつか歴史のなかになじんでいくことを心から願っている。

旧細川侯爵邸の概要(住宅総合研究財団発行 すまいろん2001冬号からの抜粋)

旧細川侯爵邸は目白台の丘陵地の一角をなす約21,000平方メートルの財団法人和敬塾の構内にある。この敷地は江戸時代の肥後熊本藩・細川家の下屋敷の一部である。明治になって細川家はこの地に和館・洋館併立の邸宅を構えて本宅としたが、大正12年(1923)の関東大震災によって被害に遭い取り壊されてしまう。現存する建物は昭和11年に再建されたもので、現在はこの建物を含む敷地全体を、財団法人和敬塾が所有している。建築計画は、昭和7年(1932)に細川護立侯爵が設計を大森茂建築事務所に、施工を株式会社大林組に依頼して始まった。昭和9年5月に地鎮祭、同11年12月6日に落成式が行われている。以後、細川家の家族は終戦までの9年間をここで生活したが、終戦後は進駐軍に接収されオランダ軍が使用した。以降接収解除後も細川家が本邸を使用することはなかった。

躯体は当時新技術であった鉄筋コンクリート造で、小屋組は木造である。設計図は昭和7年と9年の2案が現存していて、一度設計が終わった後に再度設計をしていることがわかっている。2案とも外観にチュダーゴシック様式を基調とする本格的な洋風意匠が施されているが、契約後に設計変更がなされハーフティンバーやスクラッチタイルが中止されてモルタルリシン吹きつけの比較的シンプルな外観で竣工している。

内部では客間の漆塗りの腰、竹の高度な細工でまとめた寝室、中国風の居間等が大きな特徴となっているが、これらはいずれも設計図には表現されていない意匠である。空間構成は洋風の平面計画を基本とするが、2階は私的な部分と公的な部分の双方に和室を取り入れている。家人のための部屋はそれぞれ決して大きくなく、用途を考えると首を傾げてしまうような部屋が多い。枠廻りなどの全般的な意匠は、設計図に表現されている装飾的な雰囲気ではなく、すっきりとした意匠で竣工している。その後大きな改造がなく、ほぼ当初の状態を保っているが、一部の内装仕上げ材は接収期間中に取り換えられている。暖房設備は石炭炊きボイラーを熱源とするスチーム暖房設備とともに、ダクトによって各室に新鮮空気を供給する近代的なシステムが設けられていた。

NPO木の建築8 2004年4月号